ユーラシア大陸横断の旅
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ナポレオンのロシア遠征
2005. 0324-0329
雪解けの季節は危険がいっぱい
モスクワ市10区の人口は1000万人を超える。冬季には-10℃にもなる厳しい気象条件のモスクワに、よくもまあこれだけの人が集まったものだ。2006年1月には-30℃にも気温が下がって、凍死者まで出した。
モスクワでは早朝から除雪車や雪掻き人夫による作業が行われている。建物の周囲に赤いテープが張ってあれば、それは近づくなのしるし。ビルの屋上からドカドカ雪を落としてくるので、大変危険だ。それにしてもこれだけの都会にこれだけの雪が降れば、除雪のコストも相当なものだろう。当然ながら除雪に携わる人々も多く、もしモスクワに雪が降らなくなったら、失業者で溢れかえるのではないか。
私が歩道を歩いていたとき、数メートル先を歩いていた人の眼前に、ビルの屋上から雪の塊が崩落してきたことがある。その人は大変驚いた様子で、すぐさま車道を横切って反対側の歩道へ移ってしまった。もちろん私も驚いて、直ちにそれに倣ったわけだが、あんな大きな雪塊の直撃を受けてはタダでは済まないだろう。毎年相当数の人が、モスクワでは雪害で死んでいるのではないだろうかと思う。


      ボロディノ戦闘パノラマ館。
Музей-Панорама “Бородинская Битва” )。ロシア軍がナポレオン軍に打撃を与えたボロディノの戦いを記念した博物館。トルストイ「戦争と平和icon」のクライマックスシーンでよく知られる戦いだ。円筒形のドーム内部には戦闘の様子がパノラミックに描かれていて、迫力がある。当時のロシア軍やフランス軍の軍装など、何となく子ども向け展示のような気もするが、なかなか見応えのある博物館である。
 


      ボロディノ戦闘パノラマ館のチケット。50ルーブルでした。人が少ないので、ゆっくり見れます。  


祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)
フランス革命の混迷の中から台頭したナポレオンは、すぐれた軍事的才能を顕して国内の指導権を掌握。列強の干渉を退けてフランスの独立を確立し、皇帝となる。革命によってルイ王朝を打倒したはずのフランス民衆も、ナポレオンのカリスマ性に幻惑されたかのように熱狂的な喝采を送った。
国民的英雄となったナポレオンは、その野心を国外に向ける。アウステルリッツ、ティルジットなどの会戦を経て、ついにヨーロッパ全土を支配下におさめるに至った。ところがドーヴァー海峡を隔てたイギリスだけは、ナポレオンの権威に未だ屈していなかった。1805年のトラファルガー沖海戦において、ネルソン司令官が率いるイギリス艦隊に、ナポレオンは海軍力を壊滅させられている。武力によるイギリス侵略を断念したナポレオンは、大陸封鎖令を発動して、イギリスを経済的に孤立させようとした。
ところがイギリスに穀物を供給していたロシアにとって、その販路を失ってしまうことは死活問題であったため、ロシアはフランスに反抗することとなった。
1812年6月、ナポレオンは同盟諸国の軍を合わせた60万余の大軍を率いてロシア遠征を開始した。これは史上最大の軍勢で、第一次世界大戦までこの記録は破られることがなかった。実際に国境を越えたのは、45万の軍勢であったが、国軍のすべてを対仏戦に投入できたロシア軍の兵力が16万に過ぎなかったことを考えると、いかにナポレオン軍の軍勢が驚異であったかが分かる。しかもロシア軍は二軍団から成り、バークレー=ド=トリーとパグラチオンの両司令官は反目を続けていた。
ナポレオン軍はロシア軍を敗走させつつ進撃を続ける。ロシア皇帝アレクサンドル1世は、敗戦の原因が指揮の不統一にあるとして、8月8日にロシア軍最古参のクトゥーゾフ元帥を総司令官にした。9月7日のボロディノの戦いでは、フランス軍は3万、ロシア軍は5万8千人もの大軍を失い、勝敗を決しないままロシア軍は撤退する。そして同14日、ナポレオン軍はついにモスクワに達した。しかしモスクワ市民はすでに退去命令を受けており、市内は空っぽである。しかも夜になって各所から放火による火の手が上がりはじめた。ナポレオンは都市焼却の非人道性を咎め、和平交渉の意図があることを記した書簡をアレクサンドル1世に送るが、回答はなかった。クトゥーゾフにも交渉を試みたが、休戦条件の返答は引き延ばされ、ナポレオンはモスクワに長滞在してしまうことになる。モスクワでの越冬の危険性を察したナポレオンは、10月19日に総退却を開始した。
しかしロシアでは早くも厳しい冬が訪れつつあった。退却するフランス軍に、ロシア軍はただちに挑みかかる。越冬地として期待していたスモンレスクにも、食料はほとんどなく、雪が降り続くばかり。正規軍やパルチザンとの絶え間ない戦闘で、ナポレオン遠征軍は甚だしい被害を被り、ロシア領を脱した際には僅か2万の軍勢のみであった。ナポレオン自身は12月18日にパリに帰着したが、このとき従う者はわずか3人に過ぎなかったという。

1812年のロシア遠征は、ナポレオンにとって自らの命運を決する戦いとなった。これまで少なくとも陸上では負け知らずであったナポレオンが、なぜロシアでは敗走したのだろうか。

第一に気候条件。 7月初めには豪雨、8月には酷暑であったが、ナポレオン軍はロシア軍を相手にするのと同時に、厳冬とも戦わなければならなかった。もちろんロシア側も同じ条件下であるわけだが、冬の寒さを熟知する者とでは大きな差となってあらわれたろう。焼き払われたモスクワから撤退するナポレオン軍にとって、雪原における寒気と飢餓は、まったくの計算外であった。

第二に軍の編成。60万もの兵員を導入したが、フランス兵はその半分に過ぎず、残りは諸国から駆り集めた兵員であり、士気にも問題があった。かつての精鋭部隊のようにはいかなかったのである。

第三に農民ゲリラ軍との戦い。正規軍とは異なる予想外の戦闘が介入してきたことである。常に決戦を回避してきたロシア正規兵との戦闘と呼べる戦いは唯一ボロディノの戦いのみであった。したがってフランス軍は戦争なしに消えてしまったといえる。これはコサックやパルチザンの活躍によるものである。クトゥーゾフ将軍の偉大さは、こうした勢力をその戦略のなかに組み入れたことにある。このころのナポレオンはもはや「人民の大義」を担っているとは言い難かったからだ。

第四にナポレオンの戦術がロシアではうまく通用しなかったことである。ナポレオンの戦術は軍団を広く展開して敵の注意を分散させ、相手の弱い地点を徹底的に集中攻撃し、戦線を分断した後に各個撃破する方式である。しかしロシアに攻め込んだナポレオン軍にとって、戦争ははじめから予想外の展開を示した。正規の戦闘もなく、ロシア正規軍はどんどん撤退し、後退していってしまう。しかも後退するにあたって町や村を焼き払い、ナポレオン軍の食料や物資の現地調達を不可能にした。
近代的合理主義者としてのナポレオンにとって、ロシアほど不可解な相手はなかったのではないか。


line     line   クトゥーゾフ大通りの凱旋門。ナポレオン軍に勝利したクトゥーゾフ将軍を記念した勝利広場に建っている。   line


余談だが、「赤と黒 icon」や「パルムの僧院 icon」で有名な作家・スタンダールも、ナポレオン軍の将校として、このロシア遠征に加わっている。主計将校だったので実戦には参加しなかったが、モスクワから退却する途中も、コサック騎兵の襲撃を受けながら、毎朝ヒゲを剃るのを欠かさなかったという。
 
 
 

ボロディノの戦い
ナポレオンのロシア遠征中唯一の大戦。1812年9月7日、モスクワ西方ボロディノ近郊のモスクワ河畔で行われた。ロシア軍の総司令官はクトゥーゾフ元帥。両軍ともに甚大な損害を出したものの、決定的な勝利は得られず、ロシア軍の戦略的撤退によって戦いは幕を閉じた。

ミハイル=イラリオーノヴィチ=クトゥーゾフ(Михаил Илларионович Голенищев-Кутузов
1745年~1813年。エカチェリーナ2世、パーヴェル1世、アレクサンドル1世の3代に仕えた宿将で、モンゴル系の貴族。トルストイ「戦争と平和icon」を読んだ人には馴染み深い名前だ。クリミア戦争で片眼を失った隻眼の将軍である。会議中に平気で居眠りをし、女癖も悪かったが、国民の人気は高かった。ボロディノ戦闘後、モスクワを放棄し、フランス軍の自滅を待つ作戦をとる。冬の到来で根負けしたナポレオンが退却を始めると、執拗な追撃戦を敢行し、フランス軍の撃退に成功。この功績により、「スモレンスク公」の称号を授けられた。

 
 
 
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